僕は何かあるちょっとした、もしくはたいした計画を半ばまで終えて、残り半分をどうしようかと考えているところだった。例えば、込み入った分数の分母の計算を終えて、ちょっと一息つきながらさあ分子をどう計算しようかと考えているところを想像して欲しい。その時、僕は何かの障害にぶつかったのだと思う。そこで世界が停止した。夢の外の僕は不意に目を覚ました。
その瞬間、僕は人間の思考はリニアであると直観した。「リニア」という言葉自体が、直観のプリミティブとして浮かび上がった。要は、人は線をなぞるように一つ一つ物事を考えていて、決して並列な演繹なんて出来ないということだ。そして、全てはフラットな線に展開される。木構造を深さ優先探索を使って直列化するアルゴリズムのように。何か困ったことが一つ夢のなかの思考で起こり、思考の線が破綻して、夢の世界の構築が停止した。この事実から僕はそう感じたのだろうが、明らかに論理は飛躍している。
目を覚ました僕は、直観を枕元のスマートフォンで記録した。寝ぼけて覚束ないフリック入力で、ホーム画面のGoogleの検索ボックスに取りもあえずと打ち込んだ。ロフトで寝ていて枕元に紙とペンは無くて、はしごを降りようとする気にはならなかったようだ。大学の休み時間に何とはなしにウェブブラウザを立ち上げて思い出したその壊れかかった日本語には、その論理の飛躍はそのままの形で一片たりとも壊されずに存在していた。きっと、飛躍してるから直観なのだろう。有りもしない論理のグルーを捏造するほどに目が覚めてはいなかったのだろう。そして、記録しながらもそのとき、僕が論理の欠落にすでに気づきながらもどうしようもなかった、そんな記憶が確かにある。
しかし、なお。そこに紙とペンがあったなら。夢の啓示を記録するにはフリックは低速すぎたのではないか。せめて、枕元に置いていたノートパソコンが壊れておらず、サスペンド状態にあったなら。目覚めの後の一瞬に、もしかしたら何かを描けたのでは、そんな気もしなくはない。
もちろん、この文章は、不完全な記録と記憶を言葉の装飾で結び合わせたもので、啓示としての正当性はすでに損なわれている。ただ、いくら考えても、この文章に記されていない善き直観が在ったという仮定を信じることもやはり出来ないのだ。意識は自らを過信しているのだろうか。