本エントリは頭の中でゴチャゴチャしていたことをアウトプットして整理するという自己中心的な動機に基づいて書かれたものです。
将来計算機科学だか情報工学だか自然科学だか数理科学だかに関わることをするだろうが素直に科学にコミットする自分には酔えない身こと、科哲は避けて通れない道だと考えており、取り敢えずメジャーな立場や問題の整理を行うべきと思っていた。大学の講義を受講しつつ、講義のおさらい・補完の意味も兼ねて入門書を読むかと思い、以前から良書と聞き及んでいた本書を読んだ。講義で聞いたようなメジャーな立場がまとめられており、名前だけ聞いたことあるような論者がどういう風に位置付けられているのかある程度見えてきたので、読んで良かった。教科書的なテーマを俯瞰しつつ、科学的実在論の肯定に向かう展開も中々にスリリングで良い。
個人的にはっとされられた点は、自分(も含めて観念的に科学を捉えている多くの人)が科学哲学をめぐる議論において素粒子物理のような公理的に自然を記述し世界の森羅万象に迫らんとする類の科学を考えてしまいがちだけど、実際の科学は単一の法則に還元されない豊かな分流を備えていて、だからこそ科学の営みについて語ろうとするのは難しいということが実感されたこと。このような科学観はニュートン力学、そしてその後の物理学の成功が与えたインパクトによることは間違いないわけで、そういった近代以降の物理学の科学史的位置付けにも関心を持った。
ただ、難点というか笑いどころというか判然としないのだが、対話がこなれておらず、冒頭で筆者自身も書いていたように対話形式で書くのが得意では無かったのだろうと感じる。永井均の『倫理とは何か』なんかに比べると、議論の導入としての対話が強引に過ぎる感じが。それによって議論の内容の価値が減じられているということではないのだが、無理に対話形式にする必要が有ったのかとは思ってしまう。特に個人的に無理があると感じた(そして笑ってしまった)部分を挙げる。
テツオ―今日の講師の先生も言ってたけどさ、ジェンダーって言うか、生物学的な性と区別した「男らしさ」とか「女らしさ」ってのは、社会的に構成されたカテゴリーにすぎない。これはもう常識だって言っていいんじゃないかなあ。
リカ―「男は理系、女は文系」ってのもそうよね。あ、私たちがちょうど反例になっているか。
テツオ―ボクたちが、自然で当たり前で実在的だと思い込んでいたことが、実は人と人とのやり取りや権力関係の中で社会的に構成されたものにすぎないってことを暴露したのが社会構成主義の一番のポイントだよね。
リカ―そうね。テツオ君ってなかなか話が分かってるじゃない。フェミ夫くんだね。
テツオ―最近、ボクは社会構成主義にハマってんだよね。社会構成主義ってさ、すごくラディカルな考え方じゃん。そこが好きなんだよね。ボクらがいちばん客観的だと思っている、科学的事実や法則だって、社会的に構成されたものだと主張している人たちもいるらしいよ。
リカ―なにそれ!科学的事実が社会的構成物であるはずないじゃない。
ギャグだ…
それでは、本書とはあんまり関係の無い、現地点での個人的見解の話。
帰納の正当化の問題について。筆者の見解として示されていた「帰納を使って科学をやってよさそうな究極の理由は、宇宙のわれわれがいる場所が、帰納が役に立つような場所だからだ。」という考えを基本的に支持するが、帰納は統計的に扱える概念なのだから、例えば自然界に何故正規分布が見いだされるのかといった問いを中心とした、統計を巡る科学哲学の構築が非常に気になってくる。
実在について。人間の知覚を特別視し、自分の目で見たものが顕微鏡で観察したものよりも信頼をおけるとする理由はイマイチ分からない。目で見るものだって、水晶体というレンズを通して網膜に結像した光を化学物質の作用によって三つの波長領域においてサンプリングし、神経に送出された電気信号に脳が処理を加えた結果に過ぎないのだから。結局、人間に対して何らかの作用を起こすことが可能なものは、例えそれがどんな迂遠な検出装置を経た結果であろうとも(検出装置の出力をディスプレイなりスピーカーなりに出力できて、それを人間が認識出来れば十分)、人間にとって科学的に実在すると言えるように思う。
じゃあ電子が実在するかという問いについてだが、どのような相互作用を有するかが精緻に描かれるに伴って性質が限定されていくことで、「電子っぽさ」が程度問題として決まると考える。例えば静電気という現象を考えたとき、電子の存在を考えても当然説明がつくが、別に電荷の担い手が粒子であるのかを考える必要はないし、摩擦によって何か引力の原因となる物質が生成されると考えても説明可能かもしれない。陰極線が見つかると、電荷を担った何かを考えることになろう。そうして、油滴実験を行うことで、電気素量やその重さを仮定することが自然とみなされるようになる。
それならアニメキャラは実在するのかってことになるのだが、少なくともキャラクターを表現するに足るデータを格納するための電子や、ディスプレイから発せられる光は実在するわけで、その上でキャラクター自体が実在するかどうかってのは言葉の使い方の問題ではなかろうか。「実在」という言葉の使い方の問題が科学の根幹を揺すぶる論点には到底なりえなくて、術語としての「実在」である科学的実在の定義や立ち位置が問題なのである。生きてれば実在だとか、触れれば実在だとかなんてものを、科学的実在とは認めたくない。
まあ僕が考える程度のことはすでに誰かが考えており、その世界では批判もされつつ複雑な議論が展開されているだろうとは思う。ただ、「実在ってどういう意味だよ」とか「数学的に解釈しようぜ」とかいうあたりが自分にとっての思考の軸足であり、そのあたりを中心とした議論に共感するのは将来的にも中々変わらないだろう、という気がする。そんなこと書いた所で将来は今の自分を裏切るのかもしれないが、何せ未来のことなので、将来的に自分がどれほど変わっているかは分からない。
本書では社会構成主義や相対主義は極論として割と軽く流されていたが、そういった考えは実際社会学などの多くの分野で(多分)有用であるのに科学に単純に適用出来ない理由についてはすっきりせず、相対主義自体突き詰めていったときに引きずり込まれる深淵にも興味はあるので、前から読みたいと思っていた『相対主義の極北』あたりを読もうかと思う。そういうわけでもう買っている。そして積んでいる。
しっかし『相対主義の極北』についてのこのAmazonレビュー
「相対主義」は自分や他人の価値観とか、コミュニケーションとかの問題を考えたことのある人ならば、一度は到着する立場だと思います。
そうして、もう少し深く考えた人は「自己言及性」「再帰性」といった問題を考え始めるんじゃないかと思います。
だいたいこの辺までは、ちょっと内向的な少年少女なら、一度は考える青春のテーマ(Wなのだと思います。その後は、本格的に論理学や言語哲学へ突き進む人も中にはいるかもしれませんが、普通の人は「人の考えはそれぞれだよなあ」とかなんとかいって、まずは一区切りつけ、考えることをやめるわけです。
本書はさらにその先にこだわった本です。
(以降引用略)
だれもが一度はもつ視点を突き詰めた本 http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4393329031/#R3DGSKJQQLUEEO
— By 白頭
良い話だナァ。
他にも「この本/Webページ/論文を読め」などあれば、コメントやtwitterなどで知らせてくれるとおそらく喜ぶ。ただし読むかどうかは不明。