伊藤計劃氏の『虐殺器官』、『ハーモニー』を思い出した。前者は社会が記述される話、そしてある種の聖域としてかろうじて維持されていた身体が完全に記述される話が後者、もちろんそれだけの話では無いのだが、そんな風に勝手に思っている。
図書館の階段で立ち止まる。剥き出しになったコンクリートの柱、少し傾いだガラスの大窓、建築のことなどは良く知らないが建築家か何だかが関係しているのだろう、ということぐらいは思う。そして、この建物には設計図があるはずだ。そこに設置される書架、制御盤にコントロールされる設備、インテルの設計したCPU上で動くアップル社秘蔵のソースコードから生成されたバイナリ、この図書館という施設は既に、記述されうるものなのか。山と置かれた本がそういう思いにさせるのだろう。
だがしかし、この図書館を建てる際に、大工がコンクリートにゴミでも埋めたとしたら。その場の都合で設計図に無い手直しをしたとしたら。だからどうなのだ、と考えたが、特に何か言う事も無く、言葉が続かなかった。これが言葉にならない感覚なのだとしたら、それ以上の言葉による追求は無粋だろう。気にするまい。その感覚が与えられたことに、とりあえずの行き場の無い感謝を、書いておこう。