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Threes というパズルゲームがある。 2048 という模倣のほうが有名になってしまった ゲームである。ピースを合わせて大きな 3 × 2 ^ n を作ることが目標。6144 はかなりの高スコアで、12288 を作ると “beat Threes” とされる。

引っ越し前後の家具の配置といった作業が一段落したのを機に、断続的にやっていたこのゲームを再開した。引きこもって過ごす今年の正月休みににやることとして、6144 を作れるまでがんばろうと決めた。

この記事は敗北の表明である。すなわち、わたしは 6144 を作ることができなかった。

Threes

発達・愛着

わたしはパズルゲームなどにのめり込みやすい性質をしている。自閉症スペクトラム障害の傾向を持つ人は多かれ少なかれ同じ性質を持つと思われる。しかしのめり込んでいると生活不能になる。実際のところ気が済むまでやれば飽きるので、気が済むまでやれればいいのだが、いつになれば気が済むのか分からないのは困る。結果として身につけた処世術は「適当な目標を決めて、それを達成するまでやり続ける」である。目標を達成するまで一週間なり音信不通になっても、一週間で済むならよいという考えである。

いつもの処世術を適用すべく、6144 という目標を決定した。その地点で 3072 + 1536 までは達成したのでいけるだろうと思ったのだが、3072 + 1536 + 768 まで達成するのが限度であった。実際のところ、16 マスという狭いプレイエリアにさらに 384 を詰めることにはより大きな技術と幸運を必要とする。もう少しだと思わせて実は先が長いという構造は、いわゆるコンプガチャと通底しており邪悪にも思われる。ゲームデザインとして意図したことではなさそうだが、少し失敗か。

ここまで読めばおわかりだが、目標が達成できないといつまで経っても生活できないという、致命的な欠点がこの処世術にはある。現に正月休みを過ぎても 6144 を作れずにいて労働に支障が出ていた。それでは困るということで目標を修正すればよいのだが、「自分への約束」たる目標値を修正することは中々容易なことではなく、自分を納得させるための相当な理由付けなりを必要とする。

ずっと粘ってればそのうち 6144 を作れる気もしていたが、しかし将来的なことも考慮するならばセルフコントロールを改善すべきである。その一つの方法として、文章に昇華させることはできないかと思いついた。

その試みは完全に成功に成功で、この文章を書き終える前のとっくに Threes をやり続ける気というものをなくしていた。これは一つの収穫で、素直にめでたいことだと喜んでいる。

冷静になってみると、なぜ恣意的に決めた数値にこだわるのだろう。誰かに「よくがんばったね、十分だよ」と言ってもらえればそれで済むのではないかとも思う。孤独であるのがよくないのだろうか。アルコール依存については孤独が極めて大きな要因だとも効く。愛着(attachment)がぶっ壊れてるんだろうかとも思う。 入門的な和書英語版 Wikipedia 記事 を読むのは疑似科学かと半信半疑ではあるものの楽しい。自分は主に不安型であるだろうと感じつつ、回避型の要素も否めない。ただし回避については、コミュニケーションの齟齬で互いに傷付かないかという合理的な不安というふうに、自分の中では論理で説明できるように感じている。だからこそ説明不能なものとして不安的な要素を自覚しやすいのだろうか?

将棋・逸脱

ここ数年 将棋連盟のモバイル中継 で将棋観戦を楽しんでいる。観戦を始めたときは駒の動かし方と、美濃囲い・四間飛車・矢倉囲い・棒銀の名前くらいしか知らない程度だったが、解説の助けなどもあり、一つ一つの駒の動きに合理性があることの美しさや、難解な終盤のスリルを楽しんでいる。始めに観戦したのが先手藤井聡太七段(当時)後手広瀬章人八段の、挑戦者決定戦となる2019年王将リーグ戦だったのは非常な幸運だったと言える。名局賞特別賞にも選ばれた一局で、矢倉のジリジリした序盤からの激しい攻め合い、終盤戦での逆転に次ぐ逆転、そして最終盤のドラマと、全くの素人にも凄さが伝わってくる濃密な一局であった。

将棋ウォーズなどを始めて自分で指したいとも思いつつ、時間を無限に溶かしてしまうのが怖くて手が出せなかったりしている今日この頃。

大晦日にはニコ生で『大晦日将棋ライバルズ』を視聴し、改めて棋士の集中力に恐れ入り、見習いたいと感じていた。Threes で好スコアを出せないのも、集中力が足らずに構想立てや読みを省いて感覚でやってしまうところに原因があると考えている。仕事ではプログラミングの速度も課題である。集中方法と言えば 登さんの記事 を思い出す。「論理的思考」をどこまで行うかのバランスは人や状況によって変わりそうではあるが、没我的な集中状態を持続させることが肝要なことは確かだろう。わたしはまだまだ精進が必要である。

プロ棋士なんて「ゲーム廃人」そのものではないかとふと思ったことがあるが、そんなことはない。まずもって、将棋によって生計を立てられる。社会生活に支障がないなら依存症とは呼ばない。さらに対局時間に出席することは当然必要で、スポンサーを伴ったプロとしては様々な作法やファンサービスも求められる。歴史の発明だろうか、一つのゲームが人生の全てになってしまう依存的な振る舞いを一歩手前で止めるブレーキが備わっているように感じられる。少なくとも十分に適応的だとは言えるだろう。

十分に適応的であるならば精神的に真に健康と言えるだろうかと考えてみて、わたしは YES と応えたい。より狭い範囲を真に健康と定義するなら、人間について何らかのモデルが必要となる。近代が大量に必要とした工場労働者や軍人、あるいは近世における農民がその例だろう。そこから外れた人たちは、たとえそれなりに幸せに生きていても真に健康とは言えない。権力者から見ればその通りだったのかもしれない。

しかし、現代はより複雑な時代である。素朴であるが強力な反論だ。対しては、ではまた単純な時代になったらどうする? という問いかけが浮かんでくる。わたし個人としては「そんな時代にはしない」というのが本命の回答となる。これからも情報科学技術が世の中を大きく変えるだろうが、画一化された人間を求める方向に向かわないよう微力でも尽くしたい。一方で、大穴の回答としては「遺伝子操作で人類を変えれば済む」というのもある。いや、遺伝子操作技術が進歩したときにどうなるかはわからない。たとえばものすごく賢いヒトを作るのか、電子計算機の下働きとして適切なヒトを作るのか。尊厳を守るための枠組みを作るとして、人類が合意できる「尊厳」とはなんだろう。